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『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』手紙の話の感動について

注意:10話のネタバレあり

 

10話の手紙の話が感動した。

感動レベルの最大瞬間風速は、アニメの中では歴代2位。なので、10話の感動について掘り下げてみたい。

10話の感動は、娘の激白シーンがピーク。

とりあえず、そのシーンの脚本を書き起こしてみる。

母「お願い 続けて」
見かねて部屋から飛び出して母へ駆け寄るアン
アン「もうやめて!お母さん」
メイド「お嬢様!」
アン「もうやめて!」
母「アン」
母「大丈夫だから 向こうへ行っててちょうだい」
アン「どうして?どうして手紙を書くの? 誰に書くの? お父さんはもういないのに」
母「大事な手紙なの」
アン「私が知らない誰かの手紙なんでしょ? お見舞いも来ない誰かよ。お母さんのことを本当に心配している人なんていないのに」
アン「私より大事な手紙なの?」
優しい目でアンを見つめる母親。
母「アンより大事なものなんてないわ」
アン「お母さんはウソばっかり」
母「ウソじゃないわ」
母親の抱く手を払いのけるアン
アン「だって お母さん ちっとも よくならないじゃない。すぐに元気になるって言ったくせに」
母「そうよ」
アン「私知ってる! お母さんは・・・ お母さんがいなくなったら私1人よ」
はっとして涙を思わず目に浮かべる母親。
アン「私はいつまでお母さんと一緒にいられるの?」
哀れみのあまり口元に手を当てて嘆き悲しむメイド。
アン「これからずっと1人になるなら 手紙なんて書かないで 今私と一緒にいて」
アン「私といてよ お母さん!」
アン「お母さん!」
ヴァイオレット「お嬢様」
アン「お母さん!」
ヴァイオレットの手を振りほどいて家の外へ駆け出すアン。

この中でも特に重要なのは、「私知ってる!」のところ。この発言がでてくるということは、この日に至るまでに、アンは母親の避けられない死について薄々気づきつつも、それを正面から切り出せず、1人で抱え続けていたことが伝わる。それがどれほど重く辛いことかは読者は瞬時に理解するので、その結果、アンの涙や感情に急にリアリティが灯る。ここぞとばかりに、このセリフの後に、メイドの涙を浮かべるシーンも挿入されており、もはや状況を見守る誰もがアンに同情をする。視聴者である自分も、ここで一番涙腺が緩んだ。

アンのこの激白はそれまでのアンの態度やその態度から推測される彼女の内面の状態とは大きく異なり、ここにギャップ効果が一気にくる。これまでのアンの態度とは、何も知らない無邪気な子供らしく振る舞うというものだった。

この、唐突に表出する登場人物の抱えていた想い、みたいなものは、メイドインアビス13話にも共通する。あんなに理性的で冷静なナナチが、最後の最後で耐えきれずに「待って!」と叫び獣走りでミーティに近寄る。この描写によって視聴者は初めてナナチがどれほど大きな感情を溜め込んでいたのかを間接的に知る。

これらの2つの事例から確信したのは、登場人物の過去を直接描写しなくても、その人物の持つ「想い」の重さは十分に読者に伝わるということ。少なくともこれら2作品では、当該人物に関する情報量は1話分程度分しか与えられていない。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』10話にいたっては、アンの家族の過去については瞬間的に映し出される絵がなんどか見られる限りで、ほとんど何の具体的回想もない。

脳には相手を同情して慈悲深くなるための条件がある。それらの条件を満たせばよいのであって、必ずしも全過程を追体験させる必要はないということだ。そもそも、人間が持つ同情能力の目的は、家族のような身近な人間への保護を手厚くするためだけのものではない。社会的動物として、見ず知らずの人も同情すべき対象に含まれている。あまり関わりのない人に同情を向けるにあたっては、彼らの過去などそもそも知り得ない。であれば、表面的な情報の刺激に頼らざるをえない。最も典型的なのは涙。他人の涙を見ると、本能的に近いレベルの反応で、同情が促される。それが子供や女性であったりすれば、さらにその本能レベルの反応は高めることができる。その意味では、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』10話の場合、子供であるということは、同情の程度に大きな影響を与えていると考えられる。しかし、本作の場合、それは単に子供であるという視覚的刺激にはとどまらない。あのくらいの年の子供が両親を失いその後孤独に生きることがどれほど辛いものなのか・・・そういった思考を伴う同情。

 

にしても、極めつけはやはり、視聴者の予想を裏切る形での感情の決壊が感動の肝になっているように思う。繰り返すが、やはりそれは、「私知ってる! お母さんは・・・ お母さんがいなくなったら私1人よ」という言葉に凝縮されている。この一言によって、それまで溜め込んでいた想いがどれほど大きいものであったのかが視聴者へ押し付けられる。もし、アンが溜め込まない性格の子供であれば、あのような形で悩みが打ち明けられることもなく、ヴァイオレットが来た時点でもっと暗い状態なはず。一見何も知らなさそうな無邪気な子供が、たった数秒の短い間に、実は母親の死について意識して辛い気持ちを抱えていたということがわかるそのギャップが重要。この状況を作り出すのには、アンの性格も重要な役割を果たしている。アンは強気でツン要素が強く、その性格からして、母親の避けられない死について気づいたとしても、その不安をすぐさま解消しようとするよりは溜め込んでしまいがち。

感情の決壊を起こすには、溜め込むということはかなり重要。メイドインアビス最終話も、ナナチのあの性格でなければあそこまで巨大な決壊は起きない。

 

ネットの感想を見ると、10話の最大の涙腺崩壊ポイントはヴァイオレットが帰還後に号泣するシーンであるとの意見も多い。

帰還後のシーンの脚本:

カトレア:「おつかれさま」
エリカ:「すごい量」
ヴァイオレット:「今後50年にわたってアン・マグノリアに届ける手紙です」
アイリス:「50通も書いたの?」
エリカ:「久しぶりの出張代筆だったのに大丈夫だった?」
ヴァイオレット:「問題ありません」
アイリス:「でも ステキね。これから毎年届くのが楽しみね」
ヴァイオレット:「はい ですが...」
アイリス:「ん?」
エリカ:「あ...」
ヴァイオレットの異変に気づくエリカとアイリス。
ヴァイオレット:「届くころには お母様は...」
一筋の涙がヴァイオレットの頬を伝い落ちる。
ヴァイオレット:「まだ あんなに小さいーー寂しがり屋で」
ヴァイオレット:「お母様が大好きなお嬢様を残して」
涙が次々と止めどなく溢れる。
ヴァイオレット:「あのお屋敷に1人残されて」
ヴァイオレット:「私...」
かがみ込むヴァイオレット。
ヴァイオレットのそばに近寄って背中をさするカトレア。
ヴァイオレット:「私 お屋敷では ずっと泣くのを我慢していました」
カトレア:「うん でもヴァイオレット 届くのよ あなたの書いた手紙が」
カトレア:「それに遠く離れていても...」
キャプション:「愛するひとは ずっと見守っている」

 

さっきの脳の生理的反応の理屈からすると、ヴァイオレットはこれから家族を失う当事者ではないので、視聴者からすれば彼女はこの件に関しては同情すべき対象ではない。では、脳は一体何のために、ヴァイオレットの号泣に反応して私達を泣かせるのか。

2つの理由が考えられる。

1つは、ヴァイオレット自身の心の変化そのものに対する感動。2点目は、アンへの同情の再評価(上方修正)。

2点目について考えてみる。

ヴァイオレットも視聴者の私達も、傍観者なわけだが、傍観者として同情スイッチを入れるべきかどうかという判断は、当事者の反応だけでなく、周囲の傍観者の反応も参照していると考えられる。映画館やニコ動で観客が泣いていることがわかればこっちまで貰い泣きをしてしまうことはよくあるのと同じ。

ヴァイオレットは傍観者の1人だが、彼女が泣くことにより、アンのおかれた境遇がいかに同情すべき状態なのかが再評価される。しかも、ヴァイオレットはこれまで人前で号泣することはなかったので、そのヴァイオレットがここまで取り乱すということは尋常でないと、視聴者の脳は反応する。ギャップ効果は傍観者の反応を通して、間接的に表現してもなお有効であることがわかる。

 

 

10話の原作小説との比較

原作小説はあまり感動できなかった。逆にいうと、原作とアニメの比較によって、なにが感動を引き立てているかが明らかになる。

原作小説では、アンは母の死が近いことを早くから知り、少しでも多くの時間を母と過ごそうとすることを内面描写で明らかにしている一方、アニメでは母の死は少なくとも表面上は隠されており、母親との衝突のシーンで初めてアンから直接その不安について明かされる。前述した通り、アニメでは溜められた感情が一気に爆発する構造をもっている。

アンとヴァイオレットの関係について

原作小説では、アンにとってヴァイオレットは不思議な魅力を持った女性として描かれる。しかし、その関係は、主役が単なる傍観者として何も関与しないわけにはいかないので苦し紛れに付け足したような印象を受けた。結果的にそれは、この短編の主題であるアンと母親の関係を描くにおいてノイズとなっているように感じた。

具体的には、アンはヴァイオレットの美しさに驚いたり、ヴァイトレットに対して恋心に近い関心を抱いたりする。しかしこの関心は後に最悪な形となって一番重要なシーンで水を挿してくる。アンと母親が衝突するシーンで、アンは「わたしは・・・いらない子なの?」と母親に問うが、この言葉が本当の意味になってしまっている。「ヴァイオレットや手紙などどうでもいいからもっと私をかまってほしい」という気持ちを強調したかったのかもしれないが。

一方、アニメでのこの2人の関係は、休憩時の遊び相手程度に留まっており、ヴァイオレットはほとんど傍観者に過ぎない。その代りアニメでは、ヴァイオレットが帰還後に号泣するオリジナルシーンが用意されている。このシーンによって、視聴者にはヴァイオレットの心の成長を見せることができるし、同時に、ヴァイオレットの号泣によりアンと母親の悲しみを強調することもできている。

 

 

 

 

 

『ゴブリンスレイヤー』や『SAO』に見る性暴力と危機の相乗効果

今やエロ要素は深夜アニメに必須要素となりつつあるが、『ゴブリンスレイヤー』のようなシリアスな作品では、うかつにラッキースケベを強調しすぎては雰囲気を損ねるリスクもある。特にこの作品では主人公が堅物なのでラッキースケベと相性が悪い。

しかし、この作品ではゴブリンたちに捕まると女性は服を剥ぎ取られ弄ばれる(その後殺される)ので、これがエロ要素として機能している。7話くらいでピンチになったときは、弓矢の女の子が服を剥ぎ取られかかるが、単なる危機感情に加えて性的興奮も足し合わされることになる。

それで思い出したが、『SAO』シーズン1の最後でヒロインが無抵抗のまま服を剥ぎ取られるというピンチに直面するが、やはり危機+性的興奮はとても強い印象を視聴者に与える。

 

性暴力と危機の相乗効果

危機的状況と性的興奮という組み合わせは視聴者に大きな葛藤を生む。

一方には、その女性キャラクターがピンチを乗り切って助かってほしいという感情がありながら、同時に他方では、敵役がうまくいけば女性の恥ずかしい姿が顕になるという欲望もある。

ここに葛藤が生まれる。

最初は女性が助かってほしいと思って観ていたはずなのに、いつのまにか「やっぱり助からなくてもいいかも・・・ゴクリ」という汚い感情がひょっこり現れていることに気がつく。だから素直にその欲望を受け入れることができずに、モヤモヤする。

 

 

ゴブリンという存在が、性暴力を働く敵役としていかに適材か

このような性的要素について、ゴブリンという人間的な身体的特徴を持ちながら対話ができないという存在は、とても重要なように思う。

なぜなら、人間的な特徴を持っていることによって、性暴力を与える役として有効となるから。たとえばゴブリンではなく人間とは形質が大きく異なる生物なら、獣対人間という獣姦的な構図に映るが、それでは人間対人間が持っているような性的興奮を与えることはできない。

また、同じ人間なら慈悲の心があるので、それを無視して強姦や殺戮することは不自然に映ってしまうが、ゴブリンは対話できないし人間に慈悲を向ける存在でもないので、人間に一方的に危害を加えることは自然に映る。

VR専用AVを体験した感想:一人称視点コンテンツでの感情移入の難しさ

Oculus Goを買ったので、DMMのVR専用のAVとやらを体験してみた。
女優が至近距離に近づいて目が合うとドキッとした。
確かに、そんな体験はこれまでのAVではしたことがない。それほど、そこに人がいる感覚と見つめ合っている感覚は本物に近い。

 

VR専用AVでは、カメラの視点は常に男優に固定され一人称で進行する。
さらに、VR酔い回避のためか、カメラの位置が動くことはほとんどない。
この制約はコンテンツの内容にも影響しているようだ。
実際、女性側が積極的にリードし、男性はその場に硬直してなされるがままというスタイルの作品が多いように思われた。
男性側は声も出さず、手のモーションだけで無難な感情表現をするにとどまっている。

 

作品の中には、この基本ルールに反し、それまで消極的だった男優が唐突に女性に食らいつくシーンがあったが、この時の違和感というか、感情移入が一気に覚める感じは凄まじかった。
VRで一人称視点で登場人物になりきると、少しでも視聴者の意思と異なる行動をすると、一人称視点でシンクロしていた分、その違和感は普通のAVとは比べてとても大きなものになる。

 

このように、VRの一人称視点コンテンツでは、視覚的なリアリティによって視聴者を引き込みやすいメリットと引き換えに、主人公と視聴者の言動のズレの許容度は極めてシビアとなる。
だから、基本的に主人公(男優)には何もしゃべらせないし、何も積極的に行動させないのが、最も安全な表現になる。

 

しかし、そのような窮屈な表現しか許されないのだとしたら、むしろVRによって表現の幅は貧しくなる可能性すらある。

 

似たような感想はかつてのゲームの映像進化にも当てはまる。
ファミコン、PS、PS2と映像美が増すごとに、見た目のリアリティは上がったが、見た目がリアルだからこそ、例えば敵の動きの不自然さが際立つみたいな違和感は増した。初期のポケモンはとても綺麗な映像ではないけれど、抽象化されているからこそ、「マサラタウンはきっとこんなところなんだろうなー」みたいな、プレイヤー各々の脳内で自由な空想による補完が成立した。

 

リアルすぎるVRは空想によって補う余地を与えない。
表面的なリアリティは簡単に手に入るが、主人公(一人称視点の登場人物)と視聴者の感情のシンクロまでも同じレベルのリアリティに保つのはとても難しい課題だとおもう。

 

 

 

だからこそ、むしろ、VRが一人称視点だからといって必ずしも視聴者と登場人物のシンクロを必要としない内容の方が、上記に書いたようなズレの違和感を気にせずに、VRらしさを存分に発揮できるのかもしれない。
他人であることを前提とした上で没入する他者ならば、そもそも自分との不一致は気にならないし、自分の知らない世界を知る体験という別の楽しみがある。
例えば、恋愛モノであれば、異性の方から逆に自分がどう見えているのか、どう想われているのか。異性の体験そのものも大変興味がある。
推理モノであれば、誰かの記憶や回想の再生装置としてのVR体験。
ペットを可愛がるのを疑似体験するではなく、逆にペットになりきって飼い主が自分を可愛がるように仕向けたりする、逆ペット体験。
そういうコンテンツがあればやってみたい。

「ネット上での触覚の伝搬」に成功したASMR動画YouTuberたちと癒やしの革命

ASMRという動画のカテゴリがあることを最近知った。
音フェチ動画という意味らしく、リアルな音で耳かきを疑似体験する動画もあれば、耳を舐めてもうら音でいかがわしい体験をするものまであり、その目的や嗜好は幅広い。

 

音による癒やしやエロといえば、これまでにも催眠音声やシチュエーションボイスなどの存在は知っていたが、上級者向けのジャンルだと決め込んで切り捨てていた。
しかし、最近の耳かきASMR動画を視聴したところ、本当に耳かきされているような感覚があったので、その第一印象は、「あぁ〜癒やされるわ〜」を通り越して、まず「!?」という驚きだった。驚きのあまり、一旦イヤホンを外してイヤホンが擦れた音なのかどうか確認したほどだ。
 
良質な耳かきASMR動画をインナーイヤホンで音量大で聞くと、耳の奥でゴソッという音がしたときに、耳の穴の皮膚が錯覚を起こし、本当に耳の中を触られているような感覚が起こることがある。
この「擬似的な触覚」とでも言う効果により、鳥肌が立ったり、背筋がゾクゾクしたりといった身体的反応が簡単に起こる。
 
4000人以上の視聴者が同時に耳かきされ、快楽のあまり語彙を失っている様子が確認できる。34分10秒くらいから始まる指を使った耳かきが大変良い。
 
また、実際に耳かきをされると眠くなるが、同じように、睡眠導入を主眼においたASMR動画をしばらく視聴していると、頭がぼーっとしてきて、睡眠導入に抜群の効果がある。最近は毎日寝るときには欠かせない。
睡眠導入に視聴している最近のお気に入りのリラックス系のASMR動画。最初のブラシ音は本当に耳に何かが擦れているような感覚を得られる。
 
このような効果は、耳の近くで鳴る音や囁き声が、その音の正体の実在性や触覚を本物と錯覚させ、脳がもたらす反応を一段階上のレベルのものへと引き上げている結果であると考えられる。
おそらく、ASMR動画視聴者の放つオキシトシンの量を測定すれば、ASMR動画のもたらす癒やしの優位性の大きさを科学的にも実証できるだろう。
 
 
 
これがなぜ革命的なのか。
それは、触覚(触られている感じ)をインターネット上で伝搬し、複製することに成功しているからだ。
触覚の伝搬や複製は、五感の中では最も実現が難しい。一般人が普通に使えるレベルの触覚伝搬技術の実現は、電脳世界の到来まで待たなければならないと理解していた。しかし、その取っ掛かりが、すでにASMR動画で達成されているのだ。
 
もちろん、今はまだ完全な触覚の伝搬とは程遠い。「耳の至近距離で鳴る音」という限定的な範囲について、かろうじて触覚を錯覚させているに過ぎない。(具体的には、耳かき、耳舐め、耳への吐息、耳を擦ったり密閉されたりすることくらいしか錯覚を起こすことができない。)
しかし、むしろ興味深いのは、錯覚という方法を用いることで絶対不可能と思われていたことが意外とそうでもなかったという可能性の転換が起きたことである。もし電脳世界を使わずに触覚を伝搬させようと思ったら、体中の皮膚を覆うようなデバイスが必須で、様々な感触に対応するために様々な運動と圧力を制御しなければならない。そんな複雑な装置は想像することすら難しい。しかし錯覚をうまく使えば、脳の認知自体を変換するので大掛かりなハードウェアは必要はなく、可能性が一歩大きく開ける。
 
最近ではVRという視覚の革命が起きた。実際に体験してわかったことは、視覚のリアリティを高めると、脳が錯覚を起こして視覚以上の反応が得られることだ。例えば高いビルの上で綱渡りをすると、脳がそこにいると錯覚して、実際に足がガクガク震え始めるなどの身体的反応が起こる。
VRは所詮画面が立体的になるだけと思っていたのに、実際にやってみると思ってもみない体感が得られる。
 
このような錯覚的な二次的な効果みたいなものが、他にももっとあるかもしれない。
例えば、VRで長時間その世界にいれば、脳の機能の一部がVR空間の方を実世界と錯覚し、理性的な認知に反して、VR空間内のキャラクターに対する愛着が無意識的な作用により増強されたりする可能性がある。
 
あるいは、意図的に錯覚的感覚が生じるような、いわば身体ハック的な方向性の研究がもっと進むかもしれない。
ASMR動画の擬似的触覚とは、音をこよなく愛する人たちが手探りで見つけ出した身体ハックの成功例の1つにすぎない。今後はVRとの組み合わせによって、未知の身体ハックを利用した新たな領域の癒やしや異次元レベルのエロコンテンツが開拓されることが期待できる。
 
 
 
 
 

メイドインアビスを見た感想|嗚咽がでるほどの感動はどのようにして生み出されたか

とにかく最終話の感動が凄まじく嗚咽がでるほど泣いてしまった。嗚咽を出して泣くのは小学校低学年以来だったので、まだ自分の身体が嗚咽を出して泣く能力があったことに驚いた。

 

それほどまでに感動させたこの作品は、他の作品の感動とは一体何が違うのか。
記憶が鮮明な内に、その理由について考えてみたい。

 

感動の絶頂はミーティーとの死別シーンで、ナナチの「待って!」のところで完全にやられた。他の人の感想を見ても同じところでやられている人は多い。
このシーンを初めて見たときの印象はとてもよく覚えている。仲間との死別を悲しむ葬式的なムードで「まあ仕方ないよね・・・」的な落ち着いた悲しみのムードだったが、いざ火葬で葬ろうとしたその瞬間に、突然それまで穏やかだったナナチが、これまで聞いたこともないような大声で「待って!」と叫んだ。その大声を聞いて、一瞬何が起きたのかと驚いたが、直後に、ナナチの本当の気持ちがどうしても抑えきれずに出てしまった声なのだと理解するや、涙が止まらなくなってしまった。(これを書いている最中もまた思い出して泣いてしまった。。)(YouTubeのReaction動画を見ても同じような反応が多く、「待って!」の絶叫に対してまずはみな一瞬止まって驚き、それから状況を悟ってやりきれないといった反応に移っている)
それはたった数秒の超細かい演出だったが、その時のナナチの感情のリアリティと、キャラ崩壊のギャップ効果は過去に見たどんなアニメよりも大きいものだった。ナナチはもともと冷静キャラで、どんな状況に置かれても理性を失って叫ぶ姿は想像できなかった。そのキャラを完全に崩壊させてガン泣きさせるという超特大のギャップ効果。

もちろん、いくら作画や声優演技などの表面的な演出だけでギャップを作ったとしても、実態に即したリアリティのある感情でなければ違和感や過剰な演出に見えてしまう。ではナナチがガチ泣きするのに十分な根拠とはなんだったのか。

 

それはミーティーの死の特殊性からくる、ナナチの抱える大きな葛藤だったのではないかと思う。
ナナチの一番の望みは、ミーティーを救いたいという点。これに対し、ミーティーは不死身の呪いを受けているので今殺さなければ永久に苦しみ続けなければならない。2つの選択肢が互いに相反し、一方を取れば他方の損失が極大となるような選択肢に立たされている。
こういう状況は普通は考えにくい。現実世界でも「家族を安楽死させるかどうか」という選択肢が近いのかもしれないが、人間は必ずいつか死ねる。それと永遠に死ねないのとでは訳が違う。しかもミーティーは穏やかに暮らしており、生かし続けることは十分に可能なので、あえて殺めるには相当の精神的苦痛を必要とする。
永遠の命が存在する世界でのみ存在する悩みであり、生と死の肯定性が逆転し得る世界だからこそ、その狭間に置かれたナナチに巨大な葛藤を与えることが可能となったのかもしれない。

 

PUBG元ネタ映画『バトルロワイヤル』を見た感想 とPUBGの感想

「クラスメイトの内1人しか生き残れない」という設定が分かった時点で最後の結末を見ずにはいられない気分になったので、設定の段階で勝利している作品だとおもう。
1人しか生き残れない設定はそのままPUBGというサバイバル系オンラインゲームにも引き継がれている。このゲームは最後の1人になるまで生き延びた者が勝ちで他にルールはない。ずっとどこかに身を隠していてもいいし、銃を奪って殺戮を楽しんでも構わない。この自由かつシンプルなルールがPUBGとバトルロワイヤルの設定の独自性であり面白いポイントだと思う。
 
ゲームであるPUBGの方では誰か一人の勝者を決めればよいが、映画であるバトルロワイヤルはどのような結末を迎えるのか。
主人公の男はヒロイン的女性と一緒に行動を共にして支え合って生き抜こうとするが、制限時間終了時点で生存者が2名以上いた場合は全員死亡というルールなので、少なくとも主人公かヒロインの内どちらかの死は確定している。途中から協力的な仲間も加わり、最後に誰がどう裏切るのか、それとも全員で手榴弾でも使って自害するのか、結末が見ものとなった。
 
しかし、結末はルール破壊による全員の救済だった。
主人公らに取り付けられた爆弾付きの首輪が解除されルールの強制力が失われる。続いて、殺戮ゲームを指揮していた悪者代表的なヤツを主人公らがやっつけて普通に終わった。
もしハッピーエンドにするなら、それしか選択肢はなかったのかもしれない。
 
自分ならハッピーエンドにこだわらず、この作品の一番の独自性である「これまで仲間同士だった者の内、一人しか生き延びることができない→裏切りの強制」という設定をもっと活かすような展開が見たかった。
人間の醜い本性を生々しく描くのにこれ以上に絶好のシチュエーションはなかったと思う。
 
特に、協力から裏切りへの転換は、安心感から恐怖感、信頼から絶望へと真逆の方向への心理的変化があり、ジャイアン効果やツン→デレ転換にも見られるような、強力なギャップ効果が得られたのではないかと思う。
 
この不満は、そのままPUBGへの批判にも当てはまる。
PUBGのソロプレイモードでは、100人の見ず知らずの人が最後の1人になるまで生き延びるというルールだが、「協力」という要素が完全に抜け落ちている。
協力しようと思えばできなくはない。PUBGではボイスチャット機能をゲーム内に標準搭載しており、近くにいるプレイヤーには誰にでも話しかけることができる。なので協力しませんか?と話しかけてやろうと思えばできるし、それを禁止するルールも存在しない。
しかし協力するインセンティブの設計が不十分であるため、基本的には相手を見た瞬間に殺すことが当たり前の殺伐とした世界になっている。せめて、1ゲームの命の重みを重くすれば、自然と協力しようとする者が現れるとも考えられるが。。
 
もし協力が自然発生する場合、必ずどこかで裏切りも生じる。
序盤は協力した方が有利だとしても、ゲームの最後には1人しか生き延びれないルールなので、どこかで裏切りが発生する。その協力から裏切りへの変化の瞬間や、裏切りの気配を予感したりするスリルは想像しただけで面白い。
 
あるいは、協力する内に相手に愛着が湧いて、当初の予定通りに裏切ることができない場合もあるかもしれない。
それを示す良い例がすでにある。PUBGゲーム配信動画で最近見たのだが、最後1対1になって、冗談混じりに相手に話しかけたところ、会話が始まり仲良くなってしまった。最後は相手への愛着から殺すことができず、2人そろって手榴弾で自害するという結末を迎えた。たった数分ほどのできごとだったし、見ず知らずの相手だったが、それでも人は相手と会話をすることによってここまで情がわいてしまうということなのだろう。
ゲームで勝利できなくても、そのような心の動きが起こること自体が面白いし、興味深いことだ。PUBGのルール設計者が、もし自然な協力(と裏切り)を促せば、このようなドラマがもっと生まれるに違いないと確信している。YouTube映ろえもすると思うし、そういう動画は見てみたい。