面白さを探求するブログ

アニメ考察、読書感想、疑問に思ったことなど

『SPY×FAMILY』のアーニャ人気に見る「子供の可愛さ」という新しい生理的訴求の潮流

視聴者や読者をどうやってつなぎとめるかは常にエンタメの課題。
ストーリーの続きが気になる!と思わせるのは難易度が高いが、生理的欲求へ訴える要素は簡単に取り入れられ効果の再現性も高いから止められない。
例えば際どい衣装のカワイイ女の子やスケベシーンを入れておけば、作品内容に関わらず確実に視聴者の何割かを繋ぎ止められる。
他の作品がやるならうちもやらねば、と軍拡競争化し、気がつけば深夜アニメではヒロインが1話の3分以内に脱がさなければならないという状況にまで発展してしまった。

参考:なぜラノベ原作ヒロインは3分以内に脱ぐのか - 本しゃぶり

 

しかし時は経ち、2000年代2010年代に深夜アニメを見ていた層も今は30代40代。
さすがにもうコテコテの性的要素は食傷気味。むしろノイズにさえなる。

 

そんな彼らに効く次の特効薬となる生理的訴求要素こそ「子供」などの可愛さなのではないか。
ここで言う「可愛さ」とは性的要素を完全に排除したもので、厳密に定義するなら保護欲求を刺激する要素。
だから人間でなくてもカワイイ小動物とかでもいいのかもしれない。

 

ただ、今の日本の社会的背景からして、より強力なのはちょうどアーニャくらいの子供の持つ可愛さなのではないかと思う。
今の日本では子供を持つのはかなり難易度が高い。それ以前に恋愛さえも難易度が高い。
その代わりに、ゲームやSNSなど刺激的な娯楽に溢れているので、独身でもそれなりに楽しい人生を送ることができる。
しかし、それでも生理的欲求だけは無視できない。

 

人間の持つ生理的欲求の1つには子供などの保護を必要とする者に対する保護欲求があるが、現代日本人の多くは子供と接する機会が少なく、確実にこの欲求不満に陥っている。
この受け皿がエンタメ領域に求められないわけがない。

 

似たような光景が過去にもあった。
けいおん』が出て来た時も同じようなことを思った。
仲の良い友だちを作ってワイワイするということが得難いものになったからこそ、コミュニケーションや所属それ自体を目的とする『けいおん』のような作品が歓迎されるようになる。
もしあれが昭和時代にでてきても、この女子高生らはダラダラと何がしたいんだ、って目でしか見られない。

 

話を戻す。
性的要素を完全に排除した「子供の可愛さ」という要素は、性的要素に比べれば刺激の強さは弱いが、流行を作りやすいメリットが2つある。
性的要素はリビングで家族と見ることを難しくするが、「子供の可愛さ」にはそのような忌避感はないので誰とでも安心して見れる。また、性的消費を良く思わない視聴者を不愉快な気分にさせてしまう恐れ、文化圏ごとの年齢レートとタブーへの配慮、などのリスクが「子供の可愛さ」にはほとんどつきまとわない。
2つ目は、「子供の可愛さ」の訴求対象の広さ。これはカワイイ動物系の動画があらゆる年齢層や性別に支持されるのと同じ。

 

ちなみに『けものフレンズ』が一時期大流行したのは、上記の2つのメリットがかなり手伝ったように見える。
親子でも一緒に見れて、誰もがサーバルちゃんなどのキャラクターの可愛さを理解できる。
もちろんこれは大流行の必要条件だったとしても十分条件ではない。

 

体験した超常現象についての記録

人生で一度だけ超常現象を体験したことがある。

記録しておかないと完全に忘却してしまいそうだったのでここに記録しておくことにする。

 

それは当時小学3~6年生くらいのできごとだった。

晦日の夜、テレビで超能力特番を見ていた。

出演している超能力者とされている者が「今から視聴者の眼の前にあるスプーンを曲げてみせるのでテレビの前にスプーンを置いてほしい」と言っていたので、自分は急いでスプーンを持ってきてその通りにした。

小学生だった自分は超能力の存在を半信半疑だったのでワクワクしながらスプーンが曲がるのを待ち続けた。

そのスプーンが曲がることはなく、ガッカリした自分は用済みになったスプーンをテレビの上に置いて、一旦リビングに行くことにした。

数分後か数十分後に戻ってみると、テレビの上に置かれたスプーンが曲がっていた。

 

家族が自分を驚かせるためにやった可能性はないと言い切れる。

 

まず、その部屋には自分しか出入りしていなかった。

祖父母の家でそのテレビ番組を自分一人で見ていたが、他の家族は皆別室のリビングに集合してたしか紅白歌合戦を見ていた。超能力番組が映ったテレビを見ているのは確実に自分一人で、その部屋には自分しかいなかった。

気づかない内に実は誰かが出入りしていた可能性は完全には否定しきれないが、自分の家族は生真面目な人間ばかりで、自分を驚かせるためにそんなドッキリをする性格の人間はいない。

 

さらに、もし仮にいたとしても、スプーンの曲がり方が異様だった。

普通スプーン曲げは、曲げやすさからして取手に対して垂直方向に曲げるが、そのスプーンは捻じるようにして曲げられていた。

しかもそのスプーンはかなり頑丈な造りで、たとえ垂直方向であろうと工具でも使わなければ簡単には曲げられないほどのものだった。

自分を驚かせるためなら一番曲げ易い垂直方向の曲げでも十分なのに、捻じ曲げるとなれば何らかの工具を使わなければ不可能。

 

ネジ曲がったスプーンを発見した自分は大騒ぎして家族に報告したが、結局誰もドッキリだったと名乗り出ることはなく、今に至るまで謎のまま。

 

というわけで、この件に関しては個人的な感覚では超常現象の可能性がかなり高いとみている。

 

 

 

アニメ『無職転生』の作品分析

岡田斗司夫が珍しく異世界転生モノを推薦していたので見てみたが、まあ普通に面白く一気観できた。
というわけで、この作品の面白さがどのようにして生まれているかを考えてみる。

 

結論

  • 二重一人称視点
  • エリスと主人公のキャラ相性
  • 「見た目は子供・頭脳は大人」という一種の俺TUEEE要素

 

 

二重一人称視点

ラノベにおいて、視聴者層に近い人物の一人称視点の重要性は、単に読みやすいというだけでなく、視聴者に近い視点から状況にツッコミを入れたり視聴者に語りかけるといったアクションを可能にしたことは大きい。
一人称視点を使えば、主人公としてツッコミを入れることは当然できるが、最近では視聴者の一人としてツッコミを入れることも作品の魅力につながるようだ。
というのも、今の時代はニコ動などの視聴体験により、他の視聴者の反応(リアルタイムなコメント)が作品の視聴体験をより良くすることをみんな知っている。そのコメントに相当するものをラノベにも取り入れるには、地の文に視聴者視点のツッコミを入れればよい。
例えば『無職転生』原作ラノベ1巻の作中では以下のような地文(アニメ版ではモノローグとして表現されている)。

  • ”ゼニスの妊娠がわかった。弟か妹が生まれるらしい。家族が増えるよ。やったねルディちゃん!
  • ”ということで、ロキシーと夜の座学をすることになった。おっと、夜のって付いてるからってエロいことをするわけじゃないぞ。勉強するのは、主に雑学だ。”
  • ”それにしても、あるとは思っていたが魔術学校か。始まっちゃうか? 学園編

3番目の「始まっちゃうか? 学園編」は典型的な視聴者視点のコメントの先取り。

視聴者視点のツッコミを入れるには、そのツッコミを入れる主体が特別な人格や人物像であってはならない。視聴者層の平均値ともいえるような、つまり、なるべく尖った個性が排除された人格である必要がある。その結果、例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』におけるキョンのような無個性な人物・人格が主人公として重宝される。

しかし、これは逆に制約でもある。
視聴者層に近い人物の一人称視点導入のメリットを得たければ、その代償として主人公の個性を捨てなければならない。例えば、幼い子供や美少女を主人公にした作品を作りたい場合、もうその時点で、平均的ラノベ読者層の一人称視点を使うことを諦めなければならない。もしそれをしたいなら、特殊な神様視点を使うか、状況を見守る他の人物にツッコミさせるしかない。
つまり、主人公の人物像の自由度が奪われる。
この問題を解決する方法の1つが二重一人称視点。


二重一人称視点とは、今適当に考えた用語で、一人の人物に対して2つの人格を割り当てること。といっても多重人格というほど人格が乖離しているわけでもない。
例えば『名探偵コナン』の主人公は、高校生の工藤新一と小学生のコナン君の2つの人格が同居するが、あのくらいの乖離度。
コナンが幼児化した瞬間はまだ工藤新一という人格が1つだが、新しい体で新しい社会生活と人間関係を積み重ねれば、自分の中にもうひとつの自分のキャラが形成されていくはずだ。学校、家庭、職場ごとにキャラを使い分けている人は身を持ってこの感覚がわかるだろう。あるいはもっと単純に、誰しも心の中にある「悪魔の囁き」も二重一人称視点といっていい。

無職転生』では、転生後の主人公は幼い子供だが、二重一人称視点により、生前の主人公の人格と、新しい子供の肉体ルディとしての人格とを両立する。
つまり、子供という特徴を主人公に与えながら、同時に、平均的読者層に近い視点も兼ね備えることができている。

異世界転生モノでは転生前の人格を持ったまま新しい肉体へ転生する設定が受け入れられているため、簡単に二重一人称視点をとることができる。

硬い文体に縛られた小説と比べると極めて大きなアドバンテージではないかと思う。

 

エリスと主人公のキャラ相性

主人公がエリスと出会ってからは面白さが急上昇した。特に5~6話が一番良かった。
主人公のような性格や考えとエリスがぶつかった時、自然に5話のような騒ぎに発展する。だから作り物感が全くない。
勝手な想像で恐縮だが、おそらく作者がこの2つのキャラを近くに置いた時、キャラが自然にそのように動き出したのではないかと思う。

反対に、シルフィと主人公の関係はやや不自然に映った。
いじめられていたところを助けたところまではいいが、そこから先、二人が仲良くなっていくような必然性が見えない。性格的相性からしても、シルフィは根が引っ込み思案。主人公もそこまで積極的に行くタイプではない。
現実にこの二人のような人物がいたとして、関係を深められる姿があまり想像できない。
同様の理由で、ロキシーと主人公の関係も師弟上下関係があるから自然ではあるが、それ以上の友好関係を描くのは困難に思える。

もっと具体的にいうと、消極的な性格同士のキャラでは、喧嘩などの衝突が起きにくいので退屈。シルフィもロキシーも主人公と喧嘩になる姿が想像しずらい。
一方で、パウロやエリスのような積極的・攻撃的性格のキャラとは口論や喧嘩などの衝突が生じやすい。この衝突こそが視聴者が見たいものであり、物語に緊張感を生んでくれる。
5~6話が一番面白いのは、その緊張感がほぐれてゆくからだ。5話冒頭で主人公がエリスと激突して、二人の関係は大きな緊張状態になる。そこからエリスを危機から救ったり、魔術や算術の素晴らしさを体感させたりすることで、エリスの話し方や態度は次第に穏やかになってゆく。

 

「見た目は子供・頭脳は大人」という一種の俺TUEEE要素

見た目は子供、頭脳は大人」効果として大きいのは、大人であればごく普通の振る舞いであっても見た目が子供だと様になってしまう、というのがある。
例えば、エリスが主人公に本を買ってあげようかと提案するシーンで主人公がお金の大切さとそのお金を稼ぐ大変さをエリスに説くが、これを大人が言ったのでは全く絵にならない。
主人公に特殊なスキルが炸裂したわけでもなく、普通の大人の常識で子供に説教したに過ぎない。そんなどこの家庭にでもありふれた光景であっても、これを子供がやるとなぜか絵になる。

ちなみに『名探偵コナン』でも「見た目は子供・頭脳は大人」状態は常に継続しているが、コナンは事件解決の手柄を自分のものであることを常に打ち明けられないので、周囲から社会的承認の視線を得ることはできない。つまり水戸黄門のような痛快さは得られない。その点、『無職転生』では、「子供なのにすごいねー」的な視線を浴び続けることができ、これが作中の微弱な快楽として常に駆動し続けている。この差は大きい。
だから些細な事件解決でも絵になる。
父親との喧嘩で論破するシーンは痛快感があったし、メイドの妊娠事件でうまく着地点に持っていたシーンも主人公すごい!となる。
仮に主人公が子供ではなく、大人が同じことをやったとしたらどのように視聴者に映るだろうかと想像すると、まあ昼ドラを見ているような感じというか、かなり魅力が落ちる。


あと、子供だから性的視線が免罪される効果も大きい。
この手の作品でよくあるスケベシーンの感触がいつもとは異なる。
パンチラや胸を触るシーンの生々しさがかなり排除されてアクが抜けている感じがある。少なくとも、絵面としては6、7歳の少年が少女にイタズラしているレベルに留まっており、保護者が我が子の性への目覚めを微笑ましく見守る的な雰囲気がかなりアクを抜いていた。

 

 

SAOの作品分析:仮想空間という箱庭が物語作りにおいていかに便利か

現実世界を舞台にした物語で、話のスケールを大きくするとその代償として主人公たちの存在感が脅かされるという問題がある。
例えば、事件の規模が大きくなると報道機関、警察、自衛隊、政府などが動き出し、もはや主人公らの行動によって物語の展開をコントロールすることができなくなる。そこに無理やり主人公らちっぽけな個人が介入しようとすると不自然となりやすい。
仮に主人公らが警察や政府の大物と関わりがある人物だとしても、警察などの大きな組織が取る行動にはルールがあるので、予想外の展開も作りづらくなってしまう。


話のスケールを大きくしつつも乗り切るやり方として、以下の3つがあると考えていた。
(1)物語のカメラを主人公だけに向け続ける(例:『最終兵器彼女』、『君の名は。』など)
(2)大きな組織に所属する人物を登場人物に含める(例:『デスノート』、『亜人』、『シン・ゴジラ』、『正解するカド』など)
(3)少人数だけが知ることとして扱い続ける(例:『E.T.』、『君の名は。』など)

これらに加え、(4)仮想世界的箱庭に閉じ込め干渉を断つ、というのもありだなと、SAOを見て気がついた。

その説明の前に、そもそもなぜ話のスケールを大きくしたがるのかというと、その方が社会的承認が大きくなるから。クラスメイトしか知らない事件を解決するよりも、テレビに報道されて多くの人が注目している事件を解決する方が得られる承認は大きくなる。しかし冒頭で説明したように話のスケールを大きくすると主人公ら個人が介入する余地がなくなるので物語作りは難しくなるのでハイリスク・ハイリターン。


(1)の解決方法は、無理に取り繕おうとはせず、カメラを主人公たちだけに向けて、国や警察などの大きな組織がどう動いているかを詳しく映さないことで乗り切る。この方法を取る場合は、そもそも作品が大きな承認を得ることを重視していない場合が多い。例えば『君の名は。』では、主人公が歴史的大事件を解決するという構造を持つが、それはあくまで主人公とヒロインの恋愛の情動をドラマチックに脚色するのが目的であり、社会的承認を得ることは作品のテーマでは全くない。なので、『君の名は。』の場合は、歴史的大事件から緊迫感だけを抽出できれば十分であり、物語のカメラは主人公がどれだけの人を救ったとか事件後談とかそういうことには全くフォーカスしない。
(2)は非常に難易度が高く、例えば軍が出動する場合は軍に関する知識と考証能力がないと簡単に不自然な演出に陥る。仮にそれがこなせたとしても、軍や国が取る行動にはルールがあるので予想外の展開が作りづらい。
(3)は3つの方法の中では一番簡単だが、話のスケールを大きくするためにはいつかは重大な秘密や事件を世間の明るみに出す必要があり、それをしないなら大きな社会的承認を得ることはできない。そして世間の明るみに出した瞬間から(2)の問題が生じる。もちろん、個人レベルの人間ドラマがテーマなら無理に明るみに出す必要はない。

つまり、現実世界で話のスケールを大きくして世間に知れ渡ると(2)の問題に行きつく。
しかしSAOでは仮想世界という閉じた世界に主人公らを閉じ込めることであっさりと(2)の問題点を解決してしまった。
そして、リアルの死と仮想世界内の死を結びつけることにより、その仮想世界の命の重みだけは現実世界と同等レベルのものを抽出。その危機を打開することは大勢の人命にも関わるので巨大な社会的承認を与えることもできる。
その大事件が現実世界側でテレビ報道されても主人公らのいる仮想世界には干渉できないので、警察や政府などの大きな組織の干渉なしに、主人公たち個人の振る舞いの結果として大きな事件の解決と社会的承認を得る構図が自然に達成できる。


仮想世界を扱ったSFモノは数多くあるが、その中でもSAOで扱われる現実世界と仮想世界の関係は絶妙なものだったように思う。
理由は2つある。
1つ目は仮想世界に寄りすぎると、現実世界の意味が薄れ、結局現実世界と変わらないという問題がある。
主人公たちには生身の身体が現実世界にあり、そこへ戻らなければ栄養失調等で衰弱死するという危機感を抱いている。もしこの設定がなければ、もう永久に仮想世界の中でいいや、ってなってしまう。そうなると、上で書いたような構図は実現できない。繰り返すと、SAOの世界構造のキーポイントは、基本すべての舞台を仮想世界としつつも死だけをリアルとリンクさせたという点にある。これによって仮想世界の意味の重みをリアルと同等程度にしつつも、整合性にとらわれることなくその閉じた仮想世界の中ではいくらでも壮大な物語を展開できること。

2つ目は程よい実現可能性。
仮想化の度合いにも様々ある。モニターレベルの『サマーウォーズ』< ARレベルの『電脳コイル』<脳に電極近未来『SAO』<脳に電極未来『マトリックス』<完全仮想世界『楽園追放』<<<完全ファンタジー
今の時代の技術水準からすると電脳コイルはすぐ手前まで来すぎている。自分たちが生きている間に実現されそうなラインでいうとSAOくらいが現実味がある。
ハードウェアの問題だけでもない。SAOが扱う世界観が、MMORPGそのものであり、多くの人が実際に体験したり見聞きしたものであるのは、相当想像力のハードルを下げたのは間違いない。

***

個人的にはSAOのシノン回と、アリシゼーションの終盤はつまらなくなってしまったが、その原因の一部は上に書いてきたような話にゆきつく。

シノン回では、SAO1に比べると緊張感はかなり薄いものとなった。
やっぱり、ゲーム内で死ねば現実世界でも死ぬという設定がいかに効いていたかということだと思う。シノン回ではそれを再現するために、ゲーム内でのキルを現実世界での殺人行為と同期させるというかなり無理矢理な設定にしている。作者が、ゲーム内での死=現実の死をなんとか再現しようとしたアイデアな気がするが、やっぱり無理矢理な設定だと他のところにも無理がでてきて、全体の印象がチープに見える。例えば個人宅のキーを解除したり、心不全を起こしてかつ警察の司法解剖すらすり抜けるようなものを作れるとは思えない。

一番大きな違和感は、命の危険があると知りながら、ゲームの大会を最後までやり通したこと。普通なら、キリトがシノンを撃って退場させる。シノンに及んでいる死の危機の物語と、シノンの心の問題を克服する物語がバッティングしてしまい、両方をとろうとした結果、かなり不自然なことをやっているように見えた。

アリシゼーションの終盤は、米軍とかでてきたりと現実世界での話のスケールが大きくなりすぎて、作品がもともともっているリアリティを保つのがかなりシンドくなっている。
アリスの話それ自体と、人工知能開発のためのシミュレーションという設定も面白いので、それで十分だったのに、どうして米軍がそれを奪うとかいう展開をもってきたのか謎。無駄に話の収集が難しくなるだけなのに。

APEXの面白さ

APEXは普段FPSをやらない層にまで広がっている。Twitterの日本のトレンドに入ることもよく見るようになった。

そこでAPEXの面白さとヒット要因について考えたい。

 

バトロワ系の面白さ

APEXの面白さ以前に、まずバトロワ系というジャンル自体がもつ面白さが前提としてある。

バトロワ系の面白さとは、「最後まで生き残れ」というシンプルなルールにより、目的が明確かつシンプルになった点。また、広大なマップ上で多くの敵がランダムに配置された状態からスタートするので、先の予測が難しく、程良い運要素を与え、プレイ内容がパターン化することを防ぐ。

バトロワ系以前のFPS、例えばRainbow Six Siegeなどの固定リスポーン型のFPSと比べると、この差はかなり大きいものだった。

例えばRainbow Six Siegeだと、最初にやることや最初にどの方向へ動くかは、およその最適戦略があるので毎回それを繰り返すだけで、非常にパターン化していた。

敵と遭遇した場合は、基本的には絶対に背を向けてはならず、撃ち合いになる。そうなると結局AIMの勝負が90%くらいを占める。

しかしPUBGやAPEXなどのバトロワ系では必ずしもAIMだけの勝負ではなく、逃げる、隠れる、戦う、助ける、など自由度の高い行動選択肢があり、何が最適かはその時の状況次第で異なる。このような自由度の高い行動選択肢が生まれる土壌には、多対多のバトルであることと、広大なマップであることが必要条件。

 

 

APEXの面白さ

APEXでは更に、それまでのバトロワ系の問題点をいくつも改善した。

ここでは特にPUBGと比較して、何が改善されたかを列挙する。

■ 逆転可能性

PUBGでは一度死んだら復活できないがAPEXでは味方を復活させて形成が大きく逆転することがある。またAPEXではダウン後の体力も多いので、味方がその場で蘇生できる可能性も高い。
 

■ 世界観よりもゲーム性を重視した武器設計

PUBGやRainbow Six Siegeなど多くのFPSゲームではミリタリー世界観を重視する余り、武器の能力も現実世界の武器に沿ったものとする傾向がある。

例えば、PUBG内で登場するピストル系の武器は、マシンガンなどの連射系の武器と比べると非常に非力。もし、近くに降りた敵が連射可能なアサルトライフルでこちらにはピストル系の武器しかない状況ではほぼ勝ち目はない。

しかし、武器の能力が実際のものに近いことで喜ぶのはミリタリーのコアファンだけであり、普通のゲームプレイヤーにとっては重要ではない。

一方でAPEXではどうか。ピストル系だからといって能力的に劣るということはない。例えばウィングマンというハンドガンは6発しか打てず、連射もできないが、一発の攻撃力が高めであることから、上級者向けの武器となっている。

他にも、ハボックという武器は撃ち始めるのに時間がかかるが、そのかわり連射性能と攻撃力が高いという特徴がある。

それぞれの武器の弱点と強みの特徴が豊かで、プレイヤーごとに得意な武器や得意な戦い方が生まれ、AIMが良いか悪いかの単純な世界から脱却することに貢献している。

 

同様の理由で、PUBGやRainbow Six Siegeなど硬派なミリタリー系は、リアルなミリタリー世界観を重視して、ヘッドショットはどんな武器でも一撃みたいな特性を与えたり、体力は少なめに設定されている。この点もAPEXは裏切ってくる。APEXでは体力がFPSゲームの中ではかなり多めの設定で、しかしそのおかげで、戦っている最中にも、やっぱり今は一旦逃げようとか、回復しようとか、そういう選択肢を与えてくれる。

 

■ 観戦のインセンティブ

PUBGでは一度死んでしまった仲間を復活させることはできないので、死んでしまった仲間はすぐにマッチから離脱してしまう。

一方でAPEXでは復活の可能性が高いことと、ランクマッチでは仲間が最終的にどこまで生き残るかによってポイントが大きく変わることから、最後まで生き残った仲間のプレイを観戦することが多い。

観戦する人が多いほど、プレイヤーは緊張感や責任感をもってプレイできる。

 

■ 意思疎通の改善

PUBGと比べて、APEXではボイスチャットをしていない仲間に対しても、様々な情報を共有できる。敵がどこにいるとか、攻撃を仕掛けるとか、そういう意思を伝えやすい。

協力型オンラインゲームのストレスの多くは、仲間との意思疎通の齟齬から生まれることが多い。

 

■ より馴染みやすい世界観やキャラクター

リアルで殺伐としたミリタリーという世界観は日本では馴染みがあまりない。

APEXではアニメ調の声優ボイスを採用したり、外観的にも個性的なキャラクターを採用したり、日本人に馴染みやすいテイストになっている。

 

Twitter上ではAPEXのファンアートや二次創作漫画なんかも見かけることが多く、こういう展開はPUBGやRainbow Six Siegeのキャラクターではありえない。

 

■ ランクシステム

APEXのランクシステムは、プレイヤーの適切なランクをより正確に早く導出する、ということを放棄する代わりに、モチベーション維持に特化している。

他の多くのゲームにおけるランクシステムとは、レートという概念を使って、統計的により適切なランク水準を導き出そうとしている。強い(レートが高い)プレイヤーから勝てばレートが高くなり、逆に弱い(レートが低い)プレイヤーから勝ってもレートはそれほど上がらない。みたいな感じ。こういったシステムを導入しているゲームでは数回対戦するだけでプレイヤーの適切なランクが導出される。

 

しかし、早く正確なランクが分かることは必ずしもプレイヤーの幸福感に結びつくとは限らない。

APEXでは、ランクは上に向かって登り続けるという形式を採用している。最初は全てプレイヤーが一番下のランクからスタートして、より良い成績を残したプレイヤーはより上位のランクに登れる。

この仕組のメリットは、ランクが適正水準まで上昇していく間は相対的に自分が強いように感じられるボーナス的なモチベーション効果にある。自分の経験としても、最初のランク上げは俺つえー状態で気分が良い。

ただし、適正水準まで達するとランクが上がらなくなるのでそのカンフル剤効果はなくなる。

しかしここで話は終わらない。

APEXのランクシステムでは、ランクが一旦上がると降格を保護してくれるため、基本的に下のランクから上のランクに人が供給され続けることになる。
つまり、最初はランク上げに行き詰まったとしても、養分となるプレイヤーが下から湧いてくるので、時間が経てばランクを上げやすくなる。
多くの人はそんなことまで考えないので、自分が成長したからランクが上がったのだと錯覚する。

これは本当によくできている仕組みだと感心する。

 

APEXの問題点

■ 仲間との目的の不一致

バトルフィールドというFPSゲームがあるが、このゲームでは「対戦相手チームに勝ちたい人」と「戦車やヘリなど乗り物の操縦を楽しみたい人」の2つの人種がおり、「対戦相手チームに勝ちたい人」は乗り物で遊んでいる人に協力してもらわないと勝てないので、相当大きなストレスを抱えることになる。

これはゲーム設計者が、単一のゴールを設定してそこに誘導できなかったことに問題がある。

 

現状のAPEXにも似たような問題がある。

最大の問題は、ランクマッチの降格保護(例えばランクが一度ゴールドに上がると、どんなにポイントが下がってもシルバーには下がらないという仕組みのこと)。

降格保護ラインに近い底辺にいる人は、負けることのディスインセンティブがないため、無謀な戦いをすることにためらいがない。そういう人が一緒のチームになると、こちらは真剣にプレイしているのに、味方が適当にプレイするという温度差が生じる。

もちろん、降格保護のおかげで救われているモチベーションもある。

 

根本的な原因はランク帯ごとに設定されたポイントの増減量が、離散的すぎる(不連続的すぎる)ことにある。

ゴールド帯はゴールド1~4まで全て同じ増減の設定で、プラチナ帯に上がるとその増減値が劇的に変わる。つまり難易度が一気に変わりすぎている。一気に難しくなるから、それは当然降格する人が続出するので保護が必要となる。

しかし、最初から増減値の変化を緩やかにしておけばそうはならない。ゴールド1~4の間で少しずつ難しくなるようにしておけば降格保護が必要となるほど急激に難易度が高まる状況は生まれない。

 

 

■ キャラデザ

これはほとんど好みの問題。

ただし日本のゲーム市場を見据えるなら無視できない。

 

自分はAPEXを1000時間以上プレイしているにも関わらず、これまで500円程度しか課金したことがない。その理由は、キャラデザが好みでないから。

別のゲームでは、たった数十時間しかプレイしないゲームでも1万円を超える課金をしてしまうことも多い。

 

日本のゲーム市場で、市場規模という意味で受け入れられているのはウマ娘とかアイマスとか、要はああいうデザインやキャラクター。

APEXは、PUBGなどのリアルなミリタリー世界観からはかなり脱却できたとはいえ、まだまだ濃ゆくて厳つさが強すぎ、日本人に最適なデザインとも言えない。

もし、日本人に特化したキャラデザであれば、その差はビジネス的には極めて大きい。

今のゲーム内課金はほとんどああいったキャラクターのデザインに対して行われていると言ってもいいのだから。

 

キャラ相性類型

キャラの相性の良し悪しから、その作品の面白い/面白くないを説明できることがかなり多い。

キャラ単体での魅力も重要だが、そのキャラ単体だけでは面白さが際立たないケースも多い。

例えばクレしんしんのすけは無二の個性を持つが、他のまともな大人達を隣に配置することでようやくその破天荒さが活きてくる。

というわけで、キャラとキャラの相性の類型について思いつく限りまとめてみる。

 

 

  • 善人と悪人の協力関係
    • 例:
    • 効能:
      • 真面目と不真面目間のギャップが互いに引き出されやすい
      • 善人が悪事に手を出したり、悪人が善行に協力するきっかけをつくりやすい
  • 真面目キャラとお調子者
    • 例:
    • 効能:
      • ツンデレまたは真面目キャラのツンまたは真面目の皮を剥ぐ、あるいは、感情的にし、その別の内面を引き出させる
  • ボケキャラとツッコミキャラ
    • 例:
      • このすばの主人公と仲間の女キャラ
      • その他多数
    • 効能:
      • もはや説明不要。ボケが活きるためにツッコミは必要。
  • 無感情キャラと感情キャラ
  • 天然キャラとしっかり者
  • 真面目キャラと狂人の逃れられない関係
    • 例:
    • 効能:
      • 狂人の予想外行動により真面目キャラの真面目の皮を剥いだり、混乱により真面目さが取り乱されるギャップを引き起こしやすい
  • 真面目系敵役とお調子者正義
  • ツンデレ女子と普通男子
    • 例:
    • 効能:
      • 男性主人公の性格的特徴を排除することで男性読者が重ねやすくしつつ、みんな大好きなツンデレとふれあえる
      • 主人公の性格が凡庸なためヒロインとの接点をキャラの性格相性から与えることは難しい
  • 理論武装系ツンと理論武装系ツン
    • 例:
    • 効能:
      • ツンを貫くためや素直な本心を隠すために理論武装で相手を攻撃する。攻撃された方もまた同様の反応をとるため際限なくやり取りを続けられる

 

最近メイドインアビスというアニメを見返したが、キャラ相性の重要性を痛感した。
世界観を除けば、正直、このアニメは10話までは退屈だった。

その理由は、リコとレグのキャラ相性がよくないせいだと確信している。

この二人は、両方とも根が真面目で、相手に冗談を言ってからかうことができない。

現実の人間関係でもそうだが、根が真面目すぎる者同士では冗談を言ってからかうスキができず、相手に深入りするきっかけを与えない。

リコの天然属性とレグの真面目属性、というところだけを見れば、天然ボケ言動に冷静ツッコミを入れるというよくある安定した構図が成り立ちそうではある。しかし、やはりリコの根が真面目で良い子なため互いにからかいの攻撃をできない。

 

10話以降はナナチが登場し、キャラの相性が作る面白さが劇的に改善される。

ナナチはレグとは出会って早々にレグをからかっている。その後では、レグも感情的に言い返すシーンもあり、キャラの間に本音のやり取りが発生している。

「僕の時より嫌そうにしていない」「お前の触り方がいやらしいからだろー!」のところの絡みはすごくいい。

相手が冗談を言って攻撃してくれると、言われた側も安心して冗談を言って攻撃できる。

 

こういうのが言い合える相性というのは、ストーリーでは決まらず、二者の性格から必然的に決まるものだと思う。

現実でもそう。いくら長い付き合いがあっても、いつまでたっても冗談が言えない関係もあれば、逆に、相性が良ければ出会った初日から打ち解ける関係もある。

そういう意味では、どういう性格の二者であればどういう盛り上がりが生まれるかは事前に予測し、作り込みやすい。

 

映画『メッセージ』を見た感想

つまらなかった。

なぜつまらなかったか考える。

 

宇宙人との遭遇・対話をリアルにドキュメンタリーチックにやろうとしていた。

でもそういう方向性でやるならとことんリアリティにこだわってほしかった。

例えば、中国が先制攻撃に走ろうとしたり、隊員がC4爆弾を自己判断で宇宙人に向けて爆発させたり。

地球にやってこれる文明レベルの宇宙人に敵いっこないことは中学生でもわかるだろとツッコみたくなり冷める。

 

宇宙人の意匠ももう少し工夫してほしい。THE宇宙人、という感じのタコみたいなやつがでてきたので、またこれか、となる。

これならまだ宇宙人の姿を一切映さない方が想像で補えてリアリティがある。

 

 

面白かったところは、言語の解読のプロセスがリアルだったことと、言語が時間という概念を持たずそれを人間が体感するというアイデア

実際宇宙人がきたらどうやってコミュニケーションとるのかという課題は現実的なテーマとしても面白い。

そのテーマに集中してほしかったが、筋書きに起伏をつけるためか人間同士や国同士のトラブルが邪魔をして、この映画の独自性をかき消していた。

 

 

それにしても、やっぱり軍や国の規模に発展するような筋書きは、各組織の行動の考証コストがかかる割に、無駄にプロットの自由度を奪うので百害あって一利なしだなと思う。

この件は別の記事で書くとして、そもそもこの作品がやりたかったことは宇宙人との対話成立の過程をリアルに描くというところで、それをやるために国や軍を絡ませる必要があったとは思えない。

個人あるいは少数の人数と宇宙人が秘密裏に接触するに留めていれば、もっとやりたいことに専念できたのではないかと思う。

E.T.が良い例。

 

 

まとめ:
『メッセージ』がつまらなかった原因は、事件の規模を国や軍レベルまで大きくしすぎた結果、B級アクション的なよくある展開に飲まれ、作品が持つ独自のやりたいことから遠ざかったため。