面白さを探求するブログ

アニメ考察、読書感想、疑問に思ったことなど

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』手紙の話の感動について

注意:10話のネタバレあり

 

10話の手紙の話が感動した。

感動レベルの最大瞬間風速は、アニメの中では歴代2位。なので、10話の感動について掘り下げてみたい。

10話の感動は、娘の激白シーンがピーク。

とりあえず、そのシーンの脚本を書き起こしてみる。

母「お願い 続けて」
見かねて部屋から飛び出して母へ駆け寄るアン
アン「もうやめて!お母さん」
メイド「お嬢様!」
アン「もうやめて!」
母「アン」
母「大丈夫だから 向こうへ行っててちょうだい」
アン「どうして?どうして手紙を書くの? 誰に書くの? お父さんはもういないのに」
母「大事な手紙なの」
アン「私が知らない誰かの手紙なんでしょ? お見舞いも来ない誰かよ。お母さんのことを本当に心配している人なんていないのに」
アン「私より大事な手紙なの?」
優しい目でアンを見つめる母親。
母「アンより大事なものなんてないわ」
アン「お母さんはウソばっかり」
母「ウソじゃないわ」
母親の抱く手を払いのけるアン
アン「だって お母さん ちっとも よくならないじゃない。すぐに元気になるって言ったくせに」
母「そうよ」
アン「私知ってる! お母さんは・・・ お母さんがいなくなったら私1人よ」
はっとして涙を思わず目に浮かべる母親。
アン「私はいつまでお母さんと一緒にいられるの?」
哀れみのあまり口元に手を当てて嘆き悲しむメイド。
アン「これからずっと1人になるなら 手紙なんて書かないで 今私と一緒にいて」
アン「私といてよ お母さん!」
アン「お母さん!」
ヴァイオレット「お嬢様」
アン「お母さん!」
ヴァイオレットの手を振りほどいて家の外へ駆け出すアン。

この中でも特に重要なのは、「私知ってる!」のところ。この発言がでてくるということは、この日に至るまでに、アンは母親の避けられない死について薄々気づきつつも、それを正面から切り出せず、1人で抱え続けていたことが伝わる。それがどれほど重く辛いことかは読者は瞬時に理解するので、その結果、アンの涙や感情に急にリアリティが灯る。ここぞとばかりに、このセリフの後に、メイドの涙を浮かべるシーンも挿入されており、もはや状況を見守る誰もがアンに同情をする。視聴者である自分も、ここで一番涙腺が緩んだ。

アンのこの激白はそれまでのアンの態度やその態度から推測される彼女の内面の状態とは大きく異なり、ここにギャップ効果が一気にくる。これまでのアンの態度とは、何も知らない無邪気な子供らしく振る舞うというものだった。

この、唐突に表出する登場人物の抱えていた想い、みたいなものは、メイドインアビス13話にも共通する。あんなに理性的で冷静なナナチが、最後の最後で耐えきれずに「待って!」と叫び獣走りでミーティに近寄る。この描写によって視聴者は初めてナナチがどれほど大きな感情を溜め込んでいたのかを間接的に知る。

これらの2つの事例から確信したのは、登場人物の過去を直接描写しなくても、その人物の持つ「想い」の重さは十分に読者に伝わるということ。少なくともこれら2作品では、当該人物に関する情報量は1話分程度分しか与えられていない。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』10話にいたっては、アンの家族の過去については瞬間的に映し出される絵がなんどか見られる限りで、ほとんど何の具体的回想もない。

脳には相手を同情して慈悲深くなるための条件がある。それらの条件を満たせばよいのであって、必ずしも全過程を追体験させる必要はないということだ。そもそも、人間が持つ同情能力の目的は、家族のような身近な人間への保護を手厚くするためだけのものではない。社会的動物として、見ず知らずの人も同情すべき対象に含まれている。あまり関わりのない人に同情を向けるにあたっては、彼らの過去などそもそも知り得ない。であれば、表面的な情報の刺激に頼らざるをえない。最も典型的なのは涙。他人の涙を見ると、本能的に近いレベルの反応で、同情が促される。それが子供や女性であったりすれば、さらにその本能レベルの反応は高めることができる。その意味では、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』10話の場合、子供であるということは、同情の程度に大きな影響を与えていると考えられる。しかし、本作の場合、それは単に子供であるという視覚的刺激にはとどまらない。あのくらいの年の子供が両親を失いその後孤独に生きることがどれほど辛いものなのか・・・そういった思考を伴う同情。

 

にしても、極めつけはやはり、視聴者の予想を裏切る形での感情の決壊が感動の肝になっているように思う。繰り返すが、やはりそれは、「私知ってる! お母さんは・・・ お母さんがいなくなったら私1人よ」という言葉に凝縮されている。この一言によって、それまで溜め込んでいた想いがどれほど大きいものであったのかが視聴者へ押し付けられる。もし、アンが溜め込まない性格の子供であれば、あのような形で悩みが打ち明けられることもなく、ヴァイオレットが来た時点でもっと暗い状態なはず。一見何も知らなさそうな無邪気な子供が、たった数秒の短い間に、実は母親の死について意識して辛い気持ちを抱えていたということがわかるそのギャップが重要。この状況を作り出すのには、アンの性格も重要な役割を果たしている。アンは強気でツン要素が強く、その性格からして、母親の避けられない死について気づいたとしても、その不安をすぐさま解消しようとするよりは溜め込んでしまいがち。

感情の決壊を起こすには、溜め込むということはかなり重要。メイドインアビス最終話も、ナナチのあの性格でなければあそこまで巨大な決壊は起きない。

 

ネットの感想を見ると、10話の最大の涙腺崩壊ポイントはヴァイオレットが帰還後に号泣するシーンであるとの意見も多い。

帰還後のシーンの脚本:

カトレア:「おつかれさま」
エリカ:「すごい量」
ヴァイオレット:「今後50年にわたってアン・マグノリアに届ける手紙です」
アイリス:「50通も書いたの?」
エリカ:「久しぶりの出張代筆だったのに大丈夫だった?」
ヴァイオレット:「問題ありません」
アイリス:「でも ステキね。これから毎年届くのが楽しみね」
ヴァイオレット:「はい ですが...」
アイリス:「ん?」
エリカ:「あ...」
ヴァイオレットの異変に気づくエリカとアイリス。
ヴァイオレット:「届くころには お母様は...」
一筋の涙がヴァイオレットの頬を伝い落ちる。
ヴァイオレット:「まだ あんなに小さいーー寂しがり屋で」
ヴァイオレット:「お母様が大好きなお嬢様を残して」
涙が次々と止めどなく溢れる。
ヴァイオレット:「あのお屋敷に1人残されて」
ヴァイオレット:「私...」
かがみ込むヴァイオレット。
ヴァイオレットのそばに近寄って背中をさするカトレア。
ヴァイオレット:「私 お屋敷では ずっと泣くのを我慢していました」
カトレア:「うん でもヴァイオレット 届くのよ あなたの書いた手紙が」
カトレア:「それに遠く離れていても...」
キャプション:「愛するひとは ずっと見守っている」

 

さっきの脳の生理的反応の理屈からすると、ヴァイオレットはこれから家族を失う当事者ではないので、視聴者からすれば彼女はこの件に関しては同情すべき対象ではない。では、脳は一体何のために、ヴァイオレットの号泣に反応して私達を泣かせるのか。

2つの理由が考えられる。

1つは、ヴァイオレット自身の心の変化そのものに対する感動。2点目は、アンへの同情の再評価(上方修正)。

2点目について考えてみる。

ヴァイオレットも視聴者の私達も、傍観者なわけだが、傍観者として同情スイッチを入れるべきかどうかという判断は、当事者の反応だけでなく、周囲の傍観者の反応も参照していると考えられる。映画館やニコ動で観客が泣いていることがわかればこっちまで貰い泣きをしてしまうことはよくあるのと同じ。

ヴァイオレットは傍観者の1人だが、彼女が泣くことにより、アンのおかれた境遇がいかに同情すべき状態なのかが再評価される。しかも、ヴァイオレットはこれまで人前で号泣することはなかったので、そのヴァイオレットがここまで取り乱すということは尋常でないと、視聴者の脳は反応する。ギャップ効果は傍観者の反応を通して、間接的に表現してもなお有効であることがわかる。

 

 

10話の原作小説との比較

原作小説はあまり感動できなかった。逆にいうと、原作とアニメの比較によって、なにが感動を引き立てているかが明らかになる。

原作小説では、アンは母の死が近いことを早くから知り、少しでも多くの時間を母と過ごそうとすることを内面描写で明らかにしている一方、アニメでは母の死は少なくとも表面上は隠されており、母親との衝突のシーンで初めてアンから直接その不安について明かされる。前述した通り、アニメでは溜められた感情が一気に爆発する構造をもっている。

アンとヴァイオレットの関係について

原作小説では、アンにとってヴァイオレットは不思議な魅力を持った女性として描かれる。しかし、その関係は、主役が単なる傍観者として何も関与しないわけにはいかないので苦し紛れに付け足したような印象を受けた。結果的にそれは、この短編の主題であるアンと母親の関係を描くにおいてノイズとなっているように感じた。

具体的には、アンはヴァイオレットの美しさに驚いたり、ヴァイトレットに対して恋心に近い関心を抱いたりする。しかしこの関心は後に最悪な形となって一番重要なシーンで水を挿してくる。アンと母親が衝突するシーンで、アンは「わたしは・・・いらない子なの?」と母親に問うが、この言葉が本当の意味になってしまっている。「ヴァイオレットや手紙などどうでもいいからもっと私をかまってほしい」という気持ちを強調したかったのかもしれないが。

一方、アニメでのこの2人の関係は、休憩時の遊び相手程度に留まっており、ヴァイオレットはほとんど傍観者に過ぎない。その代りアニメでは、ヴァイオレットが帰還後に号泣するオリジナルシーンが用意されている。このシーンによって、視聴者にはヴァイオレットの心の成長を見せることができるし、同時に、ヴァイオレットの号泣によりアンと母親の悲しみを強調することもできている。