面白さを探求するブログ

アニメ考察、読書感想、疑問に思ったことなど

VR専用AVを体験した感想:一人称視点コンテンツでの感情移入の難しさ

Oculus Goを買ったので、DMMのVR専用のAVとやらを体験してみた。
女優が至近距離に近づいて目が合うとドキッとした。
確かに、そんな体験はこれまでのAVではしたことがない。それほど、そこに人がいる感覚と見つめ合っている感覚は本物に近い。

 

VR専用AVでは、カメラの視点は常に男優に固定され一人称で進行する。
さらに、VR酔い回避のためか、カメラの位置が動くことはほとんどない。
この制約はコンテンツの内容にも影響しているようだ。
実際、女性側が積極的にリードし、男性はその場に硬直してなされるがままというスタイルの作品が多いように思われた。
男性側は声も出さず、手のモーションだけで無難な感情表現をするにとどまっている。

 

作品の中には、この基本ルールに反し、それまで消極的だった男優が唐突に女性に食らいつくシーンがあったが、この時の違和感というか、感情移入が一気に覚める感じは凄まじかった。
VRで一人称視点で登場人物になりきると、少しでも視聴者の意思と異なる行動をすると、一人称視点でシンクロしていた分、その違和感は普通のAVとは比べてとても大きなものになる。

 

このように、VRの一人称視点コンテンツでは、視覚的なリアリティによって視聴者を引き込みやすいメリットと引き換えに、主人公と視聴者の言動のズレの許容度は極めてシビアとなる。
だから、基本的に主人公(男優)には何もしゃべらせないし、何も積極的に行動させないのが、最も安全な表現になる。

 

しかし、そのような窮屈な表現しか許されないのだとしたら、むしろVRによって表現の幅は貧しくなる可能性すらある。

 

似たような感想はかつてのゲームの映像進化にも当てはまる。
ファミコン、PS、PS2と映像美が増すごとに、見た目のリアリティは上がったが、見た目がリアルだからこそ、例えば敵の動きの不自然さが際立つみたいな違和感は増した。初期のポケモンはとても綺麗な映像ではないけれど、抽象化されているからこそ、「マサラタウンはきっとこんなところなんだろうなー」みたいな、プレイヤー各々の脳内で自由な空想による補完が成立した。

 

リアルすぎるVRは空想によって補う余地を与えない。
表面的なリアリティは簡単に手に入るが、主人公(一人称視点の登場人物)と視聴者の感情のシンクロまでも同じレベルのリアリティに保つのはとても難しい課題だとおもう。

 

 

 

だからこそ、むしろ、VRが一人称視点だからといって必ずしも視聴者と登場人物のシンクロを必要としない内容の方が、上記に書いたようなズレの違和感を気にせずに、VRらしさを存分に発揮できるのかもしれない。
他人であることを前提とした上で没入する他者ならば、そもそも自分との不一致は気にならないし、自分の知らない世界を知る体験という別の楽しみがある。
例えば、恋愛モノであれば、異性の方から逆に自分がどう見えているのか、どう想われているのか。異性の体験そのものも大変興味がある。
推理モノであれば、誰かの記憶や回想の再生装置としてのVR体験。
ペットを可愛がるのを疑似体験するではなく、逆にペットになりきって飼い主が自分を可愛がるように仕向けたりする、逆ペット体験。
そういうコンテンツがあればやってみたい。