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アニメ『無職転生』の作品分析

岡田斗司夫が珍しく異世界転生モノを推薦していたので見てみたが、まあ普通に面白く一気観できた。
というわけで、この作品の面白さがどのようにして生まれているかを考えてみる。

 

結論

  • 二重一人称視点
  • エリスと主人公のキャラ相性
  • 「見た目は子供・頭脳は大人」という一種の俺TUEEE要素

 

 

二重一人称視点

ラノベにおいて、視聴者層に近い人物の一人称視点の重要性は、単に読みやすいというだけでなく、視聴者に近い視点から状況にツッコミを入れたり視聴者に語りかけるといったアクションを可能にしたことは大きい。
一人称視点を使えば、主人公としてツッコミを入れることは当然できるが、最近では視聴者の一人としてツッコミを入れることも作品の魅力につながるようだ。
というのも、今の時代はニコ動などの視聴体験により、他の視聴者の反応(リアルタイムなコメント)が作品の視聴体験をより良くすることをみんな知っている。そのコメントに相当するものをラノベにも取り入れるには、地の文に視聴者視点のツッコミを入れればよい。
例えば『無職転生』原作ラノベ1巻の作中では以下のような地文(アニメ版ではモノローグとして表現されている)。

  • ”ゼニスの妊娠がわかった。弟か妹が生まれるらしい。家族が増えるよ。やったねルディちゃん!
  • ”ということで、ロキシーと夜の座学をすることになった。おっと、夜のって付いてるからってエロいことをするわけじゃないぞ。勉強するのは、主に雑学だ。”
  • ”それにしても、あるとは思っていたが魔術学校か。始まっちゃうか? 学園編

3番目の「始まっちゃうか? 学園編」は典型的な視聴者視点のコメントの先取り。

視聴者視点のツッコミを入れるには、そのツッコミを入れる主体が特別な人格や人物像であってはならない。視聴者層の平均値ともいえるような、つまり、なるべく尖った個性が排除された人格である必要がある。その結果、例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』におけるキョンのような無個性な人物・人格が主人公として重宝される。

しかし、これは逆に制約でもある。
視聴者層に近い人物の一人称視点導入のメリットを得たければ、その代償として主人公の個性を捨てなければならない。例えば、幼い子供や美少女を主人公にした作品を作りたい場合、もうその時点で、平均的ラノベ読者層の一人称視点を使うことを諦めなければならない。もしそれをしたいなら、特殊な神様視点を使うか、状況を見守る他の人物にツッコミさせるしかない。
つまり、主人公の人物像の自由度が奪われる。
この問題を解決する方法の1つが二重一人称視点。


二重一人称視点とは、今適当に考えた用語で、一人の人物に対して2つの人格を割り当てること。といっても多重人格というほど人格が乖離しているわけでもない。
例えば『名探偵コナン』の主人公は、高校生の工藤新一と小学生のコナン君の2つの人格が同居するが、あのくらいの乖離度。
コナンが幼児化した瞬間はまだ工藤新一という人格が1つだが、新しい体で新しい社会生活と人間関係を積み重ねれば、自分の中にもうひとつの自分のキャラが形成されていくはずだ。学校、家庭、職場ごとにキャラを使い分けている人は身を持ってこの感覚がわかるだろう。あるいはもっと単純に、誰しも心の中にある「悪魔の囁き」も二重一人称視点といっていい。

無職転生』では、転生後の主人公は幼い子供だが、二重一人称視点により、生前の主人公の人格と、新しい子供の肉体ルディとしての人格とを両立する。
つまり、子供という特徴を主人公に与えながら、同時に、平均的読者層に近い視点も兼ね備えることができている。

異世界転生モノでは転生前の人格を持ったまま新しい肉体へ転生する設定が受け入れられているため、簡単に二重一人称視点をとることができる。

硬い文体に縛られた小説と比べると極めて大きなアドバンテージではないかと思う。

 

エリスと主人公のキャラ相性

主人公がエリスと出会ってからは面白さが急上昇した。特に5~6話が一番良かった。
主人公のような性格や考えとエリスがぶつかった時、自然に5話のような騒ぎに発展する。だから作り物感が全くない。
勝手な想像で恐縮だが、おそらく作者がこの2つのキャラを近くに置いた時、キャラが自然にそのように動き出したのではないかと思う。

反対に、シルフィと主人公の関係はやや不自然に映った。
いじめられていたところを助けたところまではいいが、そこから先、二人が仲良くなっていくような必然性が見えない。性格的相性からしても、シルフィは根が引っ込み思案。主人公もそこまで積極的に行くタイプではない。
現実にこの二人のような人物がいたとして、関係を深められる姿があまり想像できない。
同様の理由で、ロキシーと主人公の関係も師弟上下関係があるから自然ではあるが、それ以上の友好関係を描くのは困難に思える。

もっと具体的にいうと、消極的な性格同士のキャラでは、喧嘩などの衝突が起きにくいので退屈。シルフィもロキシーも主人公と喧嘩になる姿が想像しずらい。
一方で、パウロやエリスのような積極的・攻撃的性格のキャラとは口論や喧嘩などの衝突が生じやすい。この衝突こそが視聴者が見たいものであり、物語に緊張感を生んでくれる。
5~6話が一番面白いのは、その緊張感がほぐれてゆくからだ。5話冒頭で主人公がエリスと激突して、二人の関係は大きな緊張状態になる。そこからエリスを危機から救ったり、魔術や算術の素晴らしさを体感させたりすることで、エリスの話し方や態度は次第に穏やかになってゆく。

 

「見た目は子供・頭脳は大人」という一種の俺TUEEE要素

見た目は子供、頭脳は大人」効果として大きいのは、大人であればごく普通の振る舞いであっても見た目が子供だと様になってしまう、というのがある。
例えば、エリスが主人公に本を買ってあげようかと提案するシーンで主人公がお金の大切さとそのお金を稼ぐ大変さをエリスに説くが、これを大人が言ったのでは全く絵にならない。
主人公に特殊なスキルが炸裂したわけでもなく、普通の大人の常識で子供に説教したに過ぎない。そんなどこの家庭にでもありふれた光景であっても、これを子供がやるとなぜか絵になる。

ちなみに『名探偵コナン』でも「見た目は子供・頭脳は大人」状態は常に継続しているが、コナンは事件解決の手柄を自分のものであることを常に打ち明けられないので、周囲から社会的承認の視線を得ることはできない。つまり水戸黄門のような痛快さは得られない。その点、『無職転生』では、「子供なのにすごいねー」的な視線を浴び続けることができ、これが作中の微弱な快楽として常に駆動し続けている。この差は大きい。
だから些細な事件解決でも絵になる。
父親との喧嘩で論破するシーンは痛快感があったし、メイドの妊娠事件でうまく着地点に持っていたシーンも主人公すごい!となる。
仮に主人公が子供ではなく、大人が同じことをやったとしたらどのように視聴者に映るだろうかと想像すると、まあ昼ドラを見ているような感じというか、かなり魅力が落ちる。


あと、子供だから性的視線が免罪される効果も大きい。
この手の作品でよくあるスケベシーンの感触がいつもとは異なる。
パンチラや胸を触るシーンの生々しさがかなり排除されてアクが抜けている感じがある。少なくとも、絵面としては6、7歳の少年が少女にイタズラしているレベルに留まっており、保護者が我が子の性への目覚めを微笑ましく見守る的な雰囲気がかなりアクを抜いていた。