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SAOの作品分析:仮想空間という箱庭が物語作りにおいていかに便利か

現実世界を舞台にした物語で、話のスケールを大きくするとその代償として主人公たちの存在感が脅かされるという問題がある。
例えば、事件の規模が大きくなると報道機関、警察、自衛隊、政府などが動き出し、もはや主人公らの行動によって物語の展開をコントロールすることができなくなる。そこに無理やり主人公らちっぽけな個人が介入しようとすると不自然となりやすい。
仮に主人公らが警察や政府の大物と関わりがある人物だとしても、警察などの大きな組織が取る行動にはルールがあるので、予想外の展開も作りづらくなってしまう。


話のスケールを大きくしつつも乗り切るやり方として、以下の3つがあると考えていた。
(1)物語のカメラを主人公だけに向け続ける(例:『最終兵器彼女』、『君の名は。』など)
(2)大きな組織に所属する人物を登場人物に含める(例:『デスノート』、『亜人』、『シン・ゴジラ』、『正解するカド』など)
(3)少人数だけが知ることとして扱い続ける(例:『E.T.』、『君の名は。』など)

これらに加え、(4)仮想世界的箱庭に閉じ込め干渉を断つ、というのもありだなと、SAOを見て気がついた。

その説明の前に、そもそもなぜ話のスケールを大きくしたがるのかというと、その方が社会的承認が大きくなるから。クラスメイトしか知らない事件を解決するよりも、テレビに報道されて多くの人が注目している事件を解決する方が得られる承認は大きくなる。しかし冒頭で説明したように話のスケールを大きくすると主人公ら個人が介入する余地がなくなるので物語作りは難しくなるのでハイリスク・ハイリターン。


(1)の解決方法は、無理に取り繕おうとはせず、カメラを主人公たちだけに向けて、国や警察などの大きな組織がどう動いているかを詳しく映さないことで乗り切る。この方法を取る場合は、そもそも作品が大きな承認を得ることを重視していない場合が多い。例えば『君の名は。』では、主人公が歴史的大事件を解決するという構造を持つが、それはあくまで主人公とヒロインの恋愛の情動をドラマチックに脚色するのが目的であり、社会的承認を得ることは作品のテーマでは全くない。なので、『君の名は。』の場合は、歴史的大事件から緊迫感だけを抽出できれば十分であり、物語のカメラは主人公がどれだけの人を救ったとか事件後談とかそういうことには全くフォーカスしない。
(2)は非常に難易度が高く、例えば軍が出動する場合は軍に関する知識と考証能力がないと簡単に不自然な演出に陥る。仮にそれがこなせたとしても、軍や国が取る行動にはルールがあるので予想外の展開が作りづらい。
(3)は3つの方法の中では一番簡単だが、話のスケールを大きくするためにはいつかは重大な秘密や事件を世間の明るみに出す必要があり、それをしないなら大きな社会的承認を得ることはできない。そして世間の明るみに出した瞬間から(2)の問題が生じる。もちろん、個人レベルの人間ドラマがテーマなら無理に明るみに出す必要はない。

つまり、現実世界で話のスケールを大きくして世間に知れ渡ると(2)の問題に行きつく。
しかしSAOでは仮想世界という閉じた世界に主人公らを閉じ込めることであっさりと(2)の問題点を解決してしまった。
そして、リアルの死と仮想世界内の死を結びつけることにより、その仮想世界の命の重みだけは現実世界と同等レベルのものを抽出。その危機を打開することは大勢の人命にも関わるので巨大な社会的承認を与えることもできる。
その大事件が現実世界側でテレビ報道されても主人公らのいる仮想世界には干渉できないので、警察や政府などの大きな組織の干渉なしに、主人公たち個人の振る舞いの結果として大きな事件の解決と社会的承認を得る構図が自然に達成できる。


仮想世界を扱ったSFモノは数多くあるが、その中でもSAOで扱われる現実世界と仮想世界の関係は絶妙なものだったように思う。
理由は2つある。
1つ目は仮想世界に寄りすぎると、現実世界の意味が薄れ、結局現実世界と変わらないという問題がある。
主人公たちには生身の身体が現実世界にあり、そこへ戻らなければ栄養失調等で衰弱死するという危機感を抱いている。もしこの設定がなければ、もう永久に仮想世界の中でいいや、ってなってしまう。そうなると、上で書いたような構図は実現できない。繰り返すと、SAOの世界構造のキーポイントは、基本すべての舞台を仮想世界としつつも死だけをリアルとリンクさせたという点にある。これによって仮想世界の意味の重みをリアルと同等程度にしつつも、整合性にとらわれることなくその閉じた仮想世界の中ではいくらでも壮大な物語を展開できること。

2つ目は程よい実現可能性。
仮想化の度合いにも様々ある。モニターレベルの『サマーウォーズ』< ARレベルの『電脳コイル』<脳に電極近未来『SAO』<脳に電極未来『マトリックス』<完全仮想世界『楽園追放』<<<完全ファンタジー
今の時代の技術水準からすると電脳コイルはすぐ手前まで来すぎている。自分たちが生きている間に実現されそうなラインでいうとSAOくらいが現実味がある。
ハードウェアの問題だけでもない。SAOが扱う世界観が、MMORPGそのものであり、多くの人が実際に体験したり見聞きしたものであるのは、相当想像力のハードルを下げたのは間違いない。

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個人的にはSAOのシノン回と、アリシゼーションの終盤はつまらなくなってしまったが、その原因の一部は上に書いてきたような話にゆきつく。

シノン回では、SAO1に比べると緊張感はかなり薄いものとなった。
やっぱり、ゲーム内で死ねば現実世界でも死ぬという設定がいかに効いていたかということだと思う。シノン回ではそれを再現するために、ゲーム内でのキルを現実世界での殺人行為と同期させるというかなり無理矢理な設定にしている。作者が、ゲーム内での死=現実の死をなんとか再現しようとしたアイデアな気がするが、やっぱり無理矢理な設定だと他のところにも無理がでてきて、全体の印象がチープに見える。例えば個人宅のキーを解除したり、心不全を起こしてかつ警察の司法解剖すらすり抜けるようなものを作れるとは思えない。

一番大きな違和感は、命の危険があると知りながら、ゲームの大会を最後までやり通したこと。普通なら、キリトがシノンを撃って退場させる。シノンに及んでいる死の危機の物語と、シノンの心の問題を克服する物語がバッティングしてしまい、両方をとろうとした結果、かなり不自然なことをやっているように見えた。

アリシゼーションの終盤は、米軍とかでてきたりと現実世界での話のスケールが大きくなりすぎて、作品がもともともっているリアリティを保つのがかなりシンドくなっている。
アリスの話それ自体と、人工知能開発のためのシミュレーションという設定も面白いので、それで十分だったのに、どうして米軍がそれを奪うとかいう展開をもってきたのか謎。無駄に話の収集が難しくなるだけなのに。